東京地方裁判所 昭和33年(行)40号 判決 1959年4月15日
原告 日下正一
被告 東京都中野区長・東京都中野区
主文
原告の本訴請求中、被告東京都中野区長が、原告に対し、昭和三十二年七月十九日、健康保険法に基く、哺育手当金請求のため原告がなした戸籍に関する無償証明の請求を却下した処分の無効確認を求める訴及び右処分の取消を求める訴を却下する。
原告その余の各請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一、原告の求める裁判
一、(一) 被告東京都中野区長が、原告に対し、昭和三十二年七月十九日、健康保険法に基く哺育手当金請求のため原告のなした戸籍に関する無償証明請求を却下した処分が無効であることを確認する。
(二) 仮りに右請求が理由のないときは、
右処分はこれを取消す。
二、(一) 被告東京都中野区長が、原告に対し、昭和三十二年七月十九日、健康保険法に基く哺育手当金請求のため原告がなした戸籍に関する証明請求について手数料金三十円を賦課した処分は無効であることを確認する。
(二) 仮りに右請求が理由のないときは、
右処分はこれを取消す。
三、被告東京都中野区は原告に対し金三十円及びこれに対する昭和三十三年四月九日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
四、訴訟費用は被告等の負担とする。
との判決及び第三、第四項につき仮執行の宣言を求める。
第二、被告の求める裁判
主文同旨の判決を求める。
第三、原告の主張
一、原告は健康保険法所定の被保険者であつて且つ東京都中野区の区民である。
二、原告は、昭和三十二年七月十九日、原告の長女みつこに関する哺育手当金請求のため健康保険法第七条の規定により被告中野区長に対し戸籍に関し無償で証明を請求したところ、被告中野区長は、国家公務員共済組合法に基き給付を受くべき者に対しては無償で証明がなされるが、健康保険法に基き給付を受くべき者に対しては無償で証明がなされない旨の理由を附して、中野区手数料条例(昭和二十二年三月三十一日中野区条例第四号)第二条第二十二号を適用し、原告の無償証明の請求を却下して、手数料金三十円を賦課しこれを徴収した。
三、(一) しかしながら、原告の無償証明請求を却下した処分及び原告に対し金三十円の手数料を賦課した処分は、ともに次の理由により無効であるからその無効確認を求める。
(1) 中野区手数料条例第二条は「事務手数料は左の事項の請求者から請求の際徴収する」と規定され、その第二十二号は「住民票又は戸籍の附票(除かれた住民票又は戸籍の附票を含む)の謄本、抄本、証明、閲覧及び謄本抄本の記載事項に変更がないことの証明」と規定されている。
(2) しかしながら右手数料条例第二条第二十二号は健康保険法第七条に違反するから憲法第九十四条、地方自治法第十四条第一項の規定に照らし無効であつて、前記本件各処分は、右無効な手数料条例を適用してなされたものであるから無効である。
(3) 仮りに右主張が理由のないものであるとしても、本件各処分は、健康保険法第七条に違反してなされたものであるから、地方自治法第二条第十四項、第十五項に照らし無効である。
(二) 仮りに右請求が理由がないとしても、右各処分は健康保険法第七条に違反するから違法であり、よつてその取消を求める。
四、被告中野区は、前記のように何ら法律上の原因がないにもかゝわらず、原告から三十円の手数料を徴収し不当に利得しているから、これが返還をなすべき義務がある。
五、仮りに前項の請求が理由がないとしても被告中野区長は被告中野区の区長として職務を行うについて故意又は過失により原告に対し前記のように違法な手数料の賦課処分をして金三十円の手数料を徴収し、原告に右同額の損害を与えたから右損害の賠償をなすべき義務がある。
よつて原告は被告中野区に対して右金三十円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日である昭和三十三年四月九日から完済まで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
六、なお原告は被告中野区長に対し昭和三十二年八月十三日前記処分に対し異議の申立をしたところ被告中野区長は同年十月一日附をもつて右申立を却下し同月十日原告に通知した。
第四、被告の答弁及び主張
一、訴却下を求める理由
(一) 原告が、昭和三十二年七月十九日、東京都中野区長に対して、原告の長女みつこにかゝる哺育手当金請求のための証明を申請した際に、同人の無償たるべき旨の申出が排斥されたのは、被告東京都中野区長が、原告の証明申請に基いてなした哺育事実の証明という公証行為に伴う手数料賦課による反射的な事実的効果にすぎず、却下処分という独立の行政処分がなされたわけではない。したがつて本訴請求のうち原告の無償証明請求を却下した処分の無効確認又はその取消を求める部分は不適法として却下されるべきである。
(二) かりに原告の無償たるべき旨の申出が排斥された事実をもつて却下処分という独立の行政処分であるとしても、右却下処分は原告の権利関係に何らの変動を与えるものではなく、その法律上の地位に対し何らの不安および危険をもたらすものではない。したがつて原告は右却下処分の無効確認を求めるについて確認の利益を有しないし、また取消を求めるべき利益をも有しない。
(三) また原告の無償たるべき旨の申出が排斥されたことをもつて却下処分という独立の行政処分がなされたとするならば、原告が昭和三十二年八月十三日附で被告東京都中野区長に対し行つた異議申立は、手数料徴収に対する異議の申立であつて、右却下処分に対するものではないから、右処分の取消を求める訴は訴願前置の要件を欠き、よつて不適法として却下さるべきである。
二、原告の主張に対する答弁
第一項の事実は認める。
第二項の事実中、原告主張の日に原告の長女みつこに関する哺育手当金請求のための証明申請があり、その際右証明を無償でするようにという申出があつたが、被告中野区長がこれを拒否したこと及び原告に対し手数料として金三十円を賦課しこれを徴収したことは認めるが、その余の事実は否認する。
第三項中、(一)の(1)は認めるがその余は争う。
第四項の事実中原告から金三十円の手数料を徴収したことは認めるがその余は否認する。
第五項の事実中原告から金三十円の手数料を徴収したことは認めるがその余の事実は否認する。
第六項の事実中、被告東京都中野区長が原告の異議申立を昭和三十三年十月一日附で却下したことは認めるがその余の事実は否認する。
三、被告の主張
(一) 健康保険法第七条第一項にいわゆる「戸籍ニ関シ」とは戸籍に記載した事項の証明のみに関するものと解すべきである。原告が昭和三十二年七月十九日東京都中野区長に対して請求した原告の長女みつこにかかる哺育手当金請求のための証明内容は、出産児を六ケ月間哺育したことの事実に関する証明申請であつて、右の事実は戸籍の記載からは判明しないことは明らかであるから、原告の右申請は健康保険法第七条第一項にいわゆる戸籍に関する証明申請でないことは当然である。したがつて無償で証明を受けることができないことは明らかであるから、東京都中野区手数料条例第二条第二十二号により適正な手数料を徴収したことは適法である。
(二) また健康保険法第七条一項にいわゆる「戸籍ニ関シ」とは被保険者又は被保険者たりし者(以下関係者という)の本籍地において保管されている戸籍をいい、「戸籍事務ヲ管掌スル者又ハ其ノ代理者」とは関係者の本籍地市区町村長又はその代理者を指し「証明」とは関係者の戸籍に記載された内容を意味するものである。よつて原告の長女みつこの戸籍事務を管掌する者は原告の本籍地である徳島県麻植郡山川村長であるから、健康保険法第七条による戸籍の無料証明の特典を享受しようとするならば、原告の本籍地の村長である徳島県麻植郡山川村長に請求すべきであり、原告の戸籍を管掌しない東京都中野区長に請求することは誤りである。したがつて原告の申請は申請の相手方及びその内容の何れからも健康保険法第七条に基くものとはいえないから、被告東京都中野区長が原告から手数料を徴収した行為は何ら違法ではない。
(三) かりに右主張が理由がないとしても健康保険法第七条は任意規定と解すべきであるから、戸籍事務を管掌する者は申請人の生活状況に応じて自由裁量により無償あるいは有償で証明すれば良いのである。よつて被告中野区長が原告に対し手数料を賦課徴収したことは違法ではない。
(四) 原告から徴収した金三十円の手数料は、被告東京都中野区長の適法な手数料徴収処分に基くものであるから、被告東京都は何ら不当利得するものではない。
(五) また被告東京都中野区長の手数料賦課処分は適法であるから、被告東京都中野区は原告に対し何らの損害賠償責任を負担するものではない。
第五、証拠<省略>
理由
(無償証明申請の却下の取消を求める訴についての判断)
一、原告が、昭和三十二年七月十九日、原告の長女みつこに関する哺育手当金請求のため、被告東京都中野区長に対し証明申請をし、その際右証明を無償でしてほしい旨申出たところ、被告中野区長は右申出を拒否し、中野区手数料条例第二条第二十二号により手数料三十円を賦課しこれを徴収したことは当事者間に争がない。
二、原告の証明申請が戸籍に関するものであるか否かの点はしばらくおき、本件において被告中野区長が原告の無償証明の申請を拒否したことが行政処分の無効確認訴訟又は抗告訴訟の対象となすべき独立の行政処分にあたるかどうかについて先ず判断する。
およそ区長に対し無償で公証行為をなすべきことの要求があり公証行為をなすべき場合、これに対して区長のとるべき措置としては、無償で公証行為をするか或いは公証行為とともに法令の規定に基き手数料を課するかのいずれかであつて、手数料を賦課した場合には手数料の賦課と並んで公証行為を無償でなすことを求める申出を却下するというような独立の行政処分が行われるわけではなく、右のような申出を拒否したことは手数料の賦課という積極的な処分の効果の反面としてそのうちに含まれると解すべきである。したがつてかような場合においては、手数料の賦課処分そのものを行政処分無効確認訴訟又は抗告訴訟の対象として争うべきであつて、無償たるべきことの申出を拒否されたことを独立の対象として争うことは許されないと解すべきである。(現に原告が被告中野区長のなした哺育証明によつて手当金を受領したものであることは弁論の全趣旨から認められるところである)
よつて本件においても、被告中野区長か、原告の証明を無償でなすべき旨の申出を拒否したこと(原告主張の無償証明申請却下処分)を行政処分無効確認訴訟及び抗告訴訟の対象とすることは許されないというべきでありり、原告の本訴請求中右無効確認及びその取消を求める訴は不適法である。
(手数料の賦課処分の無効確認及び取消を求める訴についての判断)
一、原告が昭和三十二年七月十九日原告の長女みつこに関する哺育手当金請求のため被告中野区長に対し証明申請をし、その際右証明は無償でなすようにとの申出をしたが被告中野区長は中野区手数料条例第二条第二十二号により手数料として三十円を賦課したことは当事者間に争がない。
二、そこで右手数料の賦課処分が違法であるかどうかにつき判断する。
(一) 先ず原告は中野区手数料条例第二条第二十二号は健康保険法第七条に違反するから、憲法第九十四条、地方自治法第十四条第一項に照らして無効であると主張するのでこの点について判断する。
中野区手数料条例第二条は「事務手数料は左の事項の請求者から請求の際徴収する」と規定され、その第二十二号は「住民票又は戸籍の附票(除かれた住民票又は戸籍の附票も含む)の謄本、抄本、証明、閲覧及び謄本、抄本の記載事項に変更がないことの証明」と規定されていることは明らかである。
ところで健康保険法第七条にいわゆる戸籍に関する証明とは、後記のように戸籍法に基く戸籍の記載事項についての証明(戸籍法施行規則第十四条参照)をいうものと解すべきであり、中野区手数料条例第二条第二十二号は、住民登録法に基く住民票又は戸籍の附票の証明等に関する規定であつて、戸籍法に基く戸籍の記載事項の証明に関するものではないから右条例の規定は健康保健法第七条違反の問題を生ずる余地はない。又地方自治体では地方自治法第二百二十二条、第二百二十三条により住民登録法に基く前記のような証明について条例をもつて手数料を賦課しうることは明らかであり、右条例が憲法及び地方自治法第十四条第九十四条に違反するとはいえない。よつて右条例を無効ということはできないから、被告中野区長の手数料賦課処分は右原告主張の点においては違法ではない。
(二) 原告は次に本件手数料賦課処分は健康保険法第七条に違反するから違法であると主張するのでこの点について判断する。
健康保険法第七条は、被保険者又は被保険者たりし者の本籍地において保管されている戸籍簿の記載事項につき、本籍所在地の市区町村長又はその代理者(地方自治法にしたがいこれらの者の職務を代理する者)に対し無償で証明を求めることができる旨を規定したものと解するのが相当である。けだし、健康保険法第七条は、国家公務員共済組合法第十一条のごとく必要な範囲内であらゆる証明を求めることができる旨を規定しているわけではなく、単に戸籍に関してのみの証明を求めうることを規定するにすぎず、右にいう戸籍とは、戸籍法にいう戸籍を指すと解するのか相当であり、また戸籍法第一条は戸籍事務を管掌する者を市町村長としているが、戸籍は本籍所在地の市区町村において編成せられ、その正本はその市区役所又は町村役場に備えられるものであるから、本籍所在地以外の市区町村長は、戸籍に関し、直接証明をなすことは不可能であつて、証明の申請も本籍所在地の市区町村長に対しなすべきであると解するのが相当であるからである。
ところで成立につき争のない(乙第二号証は原本の存在も)乙第一、第二号証によると原告が、被告中野区長に対し求めた証明事項は、原告が長女みつこを昭和三十三年一月一日から同年六月三十日まで、哺育したことの証明であると認められ、右認定を左右するに足る証拠はない。右のような事項は単に戸籍簿の記載から直に判明することではなく、原告がみつこを哺育したかどうかの事実を調査して始めてわかることであるから(もつとも一般には住民登録票の記載から原告とみつこが同居している事実が認められゝば右事実を推認しても差支えないと考えられる)、右のような事項の証明は健康保険法第七条にいう戸籍に関する証明といえないことは明らかである。(また成立につき争のない乙第五号証によると原告の本籍地は徳島県麻植郡山川村であることが認められるから、原告の長女みつこの戸籍事務を管掌する者は右山川村長であつて中野区長ではない。したがつてこの点からも原告は本件の証明申請について健康保険法第七条により無償で証明を受けることはできないといわなければならない)。よつて被告中野区長のなした手数料賦課処分は、健康保険法第七条に何ら違反するものではなく、右違反を前提とする原告主張の点においては本件手数料賦課処分は違法でないといわなければならないし、したがつて無効でもない。よつて右処分の無効確認及び取消を求める原告の請求は理由がない。
(不当利得として手数料の返還を求める訴についての判断)
前記のように被告中野区長のなした手数料賦課処分は無効ではないから、右処分に基き被告中野区が原告から手数料三十円を徴収したことは何ら不当利得となるものではない。よつて右金員の返還を求める原告の請求は理由がない。
(損害賠償を求める訴についての判断)
前記のように被告中野区長のなしに手数料賦課処分は違法ではないから、その余の点について判断するまでもなく、損害賠償を求める原告の請求は理由がない。
(結論)
原告の本訴請求中、原告の無償証明申請を却下した処分の無効確認及び取消を求める訴は不適法であるからこれを却下することとし、その余の原告の各請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 石田哲一 地京武人 越山安久)